親ガチャとは、自分の両親など家庭環境が選べないということを、ガチャ(=くじ引き)になぞらえたネットスラングだ。
「自分の人生が、努力の程度で変えることができない」と考える若者の総論ともいえる。
私は就職氷河期世代で、高度経済成長を経験した親の時代と比べて、努力次第でなんとかなる可能性が少なくなったと肌で感じる。
努力すれば、坂の上にある雲さえつかむことができた高度経済成長期やバブル期にチャンスをつかみ、既得権益にしがみつく老害を目の当たりにすると、相対的貧困を感じざるをえない。
この記事では、時代の比較ではなく、養育者の子育てのやり方において、「親ガチャ」を考えていきたい。
親ガチャの当たり外れ
相対的貧困を感じている若者が思う「親ガチャ」の当たりとは、親が医者や弁護士などの専門職やキャリア官僚、お金持ちということだろうか。
本人の学歴と親の収入に、正の相関関係がデータとして出ている。
たとえば、東京大学に通う学生の親の世帯所得は、6割以上が950万円を超えている。
潤沢な資金があれば、より良い塾や家庭教師など教育に投資することができるからだ。
さらに親が、そのお金を教育に投資するというところまでがセットになる。
親が高等教育に関心がなく、違うところに投資してしまう可能性もあるからだ。
教育に投資できる資金があった方がいいが、それ以上に大切なことは、子どもの学問に対する知的好奇心やモチベーションだ。
「親ガチャ」を理解するうえで、この優先順位が最も重要なポイントである。
ただただ、お金があればよいという訳ではない。
だからといって、「親ガチャ」という言葉を利用して、自分の実力の免罪符にしてはいけないのも確かである。
高等小学校(現中学校)卒業で、総理大臣を務めた田名角栄氏もいる。
しかし時代は変わり、本人の学歴と親の収入に、正の相関関係も出てきた。
階層固定が進み、本人の努力次第で変えられる部分が少なくなったことは事実である。
ただ親がお金持ちだというだけでなく、子どもの知的好奇心をいかに引き出すかが、子育ての鍵であり、親ガチャの当たり外れを考えるうえで重要なポイントだといえる。
子育ては簡単であり難しくもある
「親ガチャ」の親は、養育者であり保護者だ。
養育者は、成人するまで養育の義務を負う。
「親孝行をしたい時に親はなし」といわれるが、親に虐待される子どももいる。
これは完全に親ガチャ外れといえる。
肉体的だけでなく精神的にもだ。
ところが精神的な場合は見分けが難しい。
外れは、親がお金を持っていることでも肩書きがあることでもない。
子どもを成人するまで養育する能力があれば、当たりといえる。
意外と親ガチャの当たりのハードルは低い。
ただ、その当たり前のことが難しくもあったりする。
本屋さんには子育て本が並び、産後うつ、育児ノイローゼになる親も少なからずいるという事実が、子育ての奥深さを物語っている。
親ガチャの外れは毒親
「毒親」と呼ばれる養育者がいる。
毒親とは、スーザン・フォワードが用いた言葉で、「毒になる親」の略である。
「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を与える親」と定義されている。
お金があるから子育てに苦労がない訳ではない。
親も教員も同じ
私が公立中学校の教員時代、4月の授業開きで、このような話をする。
コップが上を向いていないと、いくら水を注いでもこぼれてしまう。
つまり、君たちの知りたい、学びたい、覚えようという気持ちがなければ、いくら熱い授業をしても学力は身につかない。
だから、コップを上に向けるように、知識を吸収しようという気持ちを持って授業に臨んで欲しい。
公立中学校は義務教育で、得意不得意にかかわらず9教科を学ぶ。
当然、先生を選べない。
だからこそ私は、「社会科」に興味・関心を持ってもらうことを最優先に考えた。
比較的成績の良い中学校に勤務していた時、生徒にこのように言われたことがある。
社会科なんて教科書を読めばわかるし、ネットで調べればなんでもわかる。
生徒全員が、そのような考えを持ち、実践してくれるのであればありがたい。
最近ではネット環境が整い、難しい学説でも調べれば、いくらでも出てくる。
だからこそ知識注入型や単調な授業はせず、いかに社会科に興味がない生徒に興味・関心を持たせるかに注力した。
最新のICT環境を最大限に利用して、資料集ではなく動画を活用したり、パワポを利用して興味・関心を持たせる授業を展開した。
興味・関心を持ってくれれば、あとは生徒自ら調べて学習してくれる。
自習ノートを作らせると、しっかりと授業のまとめや調べ学習をしてきてくれた。
そのせいか、「授業が楽しかった」や「実際に社会の学力が上がった」と、嬉しい感想を多くもらえた。
結局、親も教員も同じなのだ。
「押しつけ」ではいけない。
子どもの知的好奇心をいかに引き出すかが大切なのだ。
子育ては出し惜しみが大切!?
うちの息子は、習い事はしていない。
正直、習い事をさせる資金の余裕がないのだ。
その代わり、息子と近所を「大冒険」と称して散歩する。
季節によって、自然の移り変わりを一緒に感じる。
花や昆虫の名前、天気や季節の変化を子ども目線で考える。
料理のお手伝いもしてくれる。
「ジャガってなに?」と息子が聞いてきた。
諸説はあるが、簡単に説明してみた。
確かにサツマイモは、薩摩藩があった鹿児島県でよくとれるのでサツマイモという。
そのように考えると、「ジャガってなに?」ってなるよな。
これが知的好奇心!
親の押しつけとは順序が異なる。
乾いたスポンジが水を吸うように、知りたいという気持ちがあれば、知識の定着率は良くなる。
子育ては待つことがポイントといえる。
子どもが聞いてくれば、いくらでも答えてやると親はドンと構えていればいい。
あれやこれや、細かいことを先に言ってしまうと、転ばぬ先の杖になる。
転んでケガをすると、いつまでも子どもの手を取っていると、かえって子どもの成長を阻害してしまう。
不登校と暴走族の根本は同じ
加藤諦三氏は、著書である『子供にしがみつく心理 大人になれない親たち』のなかで、「親子の役割逆転現象」が起きているという。
見た目は親子、しかし、よく見ると親が子どもに心理的に甘えている。
親が果たせなかった夢を、子どもにたくすような事例が役割逆転といえる。
子どもが興味を持っていること、本当にやりたいことが親はわからない。
さらに親が好きなことが、子どもも好きであると同一視する。
つまり、子どもを一人の人として尊重できないのだ。
こんな親であればいない方がマシだと、加藤諦三氏は言い切る。
親が何もしなければゼロのままだが、やり方を間違えるとマイナスが大きくなるからだ。
子どもを一人の人として尊重できないと、子どもの知的好奇心を無視することになる。
このような親が、スーザン・フォワードのいう「毒親」といえるだろう。
結果が非社会的な方向であれば、不登校や引きこもり、反社会的な方向に出れば、万引きや暴走行為となる。
だから不登校も暴走族も根本は同じなのだ。
方向が違うだけ。
親がしていることは子育てではなく、子どもを支配している。
親が心理的に自立しておらず、子どもに甘えているのである。
まとめ
親ガチャに外れがあるとすれば、親子の役割逆転現象が起きた家庭であろう。
お金や肩書きがないことが問題ではない。
むしろ、エリート官僚や医者の家庭でも起こりうる。
いや、お金や肩書きがある方が、間違いが起こりやすいともいえる。
逆に親ガチャの当たりは、貧乏でも肩書きがなくてもいいのである。
親が子どもを一人の人として尊重すればいい。
ただそれだけ。
親の仕事は○○で、子どもには△△になって欲しいけど、子どもは親と違う人格であると理解する。
そして待つ。
子どもは無限の可能性を秘めている。
親がよかれと、勝手に子どもの進路を決めることで、子どもの可能性をつぶしていることが多々ある。
偏見を持たずに、子どもを観察してみよう。
子どもの知的好奇心から来る疑問に、親が全力で応える。
分からなければ、子どもと一緒に調べればいい。
「難しいね」と一緒に悩めばいい。
「せっかく、合格率○%の塾に通わせたのに」という親は、見返りを求めている。
親子の役割逆転現象である。
子育てに見返りは不要。
当たり前のことを書いただけである。
世の中にはいかに「5歳児」が多いことか。
そういう私も5歳児だった。
気づけたことで、少しは心理的に成長できた。
見た目は校長や部長、医者など肩書きもお金もある、一見立派な大人。
しかし、中身が5歳児。
親が子どもに甘えていることに気づいていない。
だから悲劇が起こる。
もし親ガチャに外れがあるとすれば、5歳児の親に育てられることだろう。
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