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【4630万円誤送金】訴訟大国の日本に必要なのは「素直さ」【なぜ起きた】

山口県阿武町という小さな田舎町で、463世帯に振り込まれるはずの給付金が、誤って1人の口座に振り込まれるという事件が起きました。

給付を担当したのが経験の浅い職員だった。

チェック体制がずさん。

データのやりとりにフロッピーディスクが…。

銀行の担当者も疑問に思わなかった。

さらに振り込まれた先が「金の亡者」だった。

さまざまな要素が重なって今回の事件は起きました。

誤って振り込むことも許されませんが、返還に応じない男性も男性です。

先日、3回目のワクチン接種へ行った時、本人確認されました。

タッド先生

本人確認って必要!?

本人が来ているのに、「本当に本人ですか?」

もう一人か二人くらいタッド先生がいるのでしょうか。

まあ本人と偽る事件が多発しているので、本人確認が義務づけられているのでしょう。

ところが確認しても間違いは起きます。

今回の事件は本人に給付したのですが、給付額を間違えたということです。

あて先間違いも、給付額の間違いも間違いは間違いです。

さらに誤って給付されたことを知りながら、返還に応じないということが問題を大きくしています。

どちらが悪いのでしょうか。

私からすれば、どちらもどちらです。

結局、返還に応じない男性は逮捕され、裁判になるようです。

タッド先生

一体、どうなるんでしょうね。

最近では教育現場でも「訴訟、訴訟」と教員や学校、相手側の保護者を訴えるということが増えてきました。

裁判は、他人事ではないように思えます。

この事件で思い出したのが、「かぼちゃの天ぷら裁判」です。

この記事では、「かぼちゃの天ぷら裁判」を例に、真の危機管理能力とは何か、不安は大切だということについて考えていきます。

また「池袋の暴走事故」や「4630万円の誤送金問題」を考えた時、「素直さ」がなくなったような気がしました。

裁判で白黒つけなくても、互いが歩み寄って解決する「素直さ」の欠如は、心の問題ともいえます。

かぼちゃの天ぷらで最高裁判所までいくんですよ。

改めて真の危機管理能力とは本来持っている「不安」であり、「素直さ」についても考える時期にきているのではないでしょうか。

目次

かぼちゃの天ぷら裁判の決着

3年前、スーパーへ買い物に訪れた男性客が、落ちていた「かぼちゃの天ぷら」に足を滑らせて転倒。靱帯を損傷するケガをした事件の続報でした。

天ぷらを踏めば滑って転ぶことは簡単に予想できる(男性客)

天ぷらを客が踏んで転ぶことは極めて例外的だ(店側)

と互いに譲らぬ主張。

高裁は、「男性は天ぷらが落ちていることに気づくことができた」と1審の判決を取り消す逆転判決を言い渡しました。

タッド先生

もし、この男性が山でこけてケガをしたら、どうするんだろう?

2022年4月22日に、ついにこのカボチャの天ぷら裁判に決着がつきました。

カボチャの天ぷら踏んで転倒し男性負傷、スーパー側の逆転勝訴が確定

店内のレジの前に落ちていたカボチャの天ぷらを踏んで転倒し、負傷した男性が、大手スーパー「サミット」(東京)に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(深山卓也裁判長)は21日付の決定で男性側の上告を退けた。男性側に逆転敗訴を言い渡した2審・東京高裁判決が確定した。

最高裁は男性客の上告を退けて、敗訴が決定しました。

1審の東京地裁判決は「転倒事故も念頭に安全確認を徹底すべきだった」として同社側の過失を認定し、約57万円の支払いを命じた。しかし、高裁は「天ぷらが落ちていたのは短時間で、店側の責任は認められない」と判断していた。

意味のないものは排除

都会は自然を排除する」というのは、養老孟司氏の言葉です。

都会とは、人間のことを考えたものしか置かれていない場所です。

男性客にとって、「かぼちゃの天ぷら」はあってはならないものだったのでしょう。

法治主義のもと、人権と自由を保障するために、さまざまな法律が定められています。

不特定多数の客が出入りする店舗などの施設において、設備の不具合や人的ミスによって客に損害を与えた場合、店側が安全管理義務違反に問われる可能性があります。

現に5年前、スーパーの濡れた床で、男性客が足を滑らせ、障害が残るという事件が起きました。

この事件で地裁は、店側に安全管理義務違反があったとして、2000万円あまりの賠償を命じる判決を言い渡したのです。

私の実家は食堂で、創業者である祖父は、店内で客がケガをした場合、賠償責任を問われるので、保険に加入していると言っていました。

かぼちゃの天ぷらが床に落ちていたとしても、年齢や性別、筋力、履いていた靴の種類によっても結果は異なるし、たとえ踏んでも転んだとしても、ケガをするかどうかは予測するのは難しいです。

どこまで過失を認めて、安全管理義務違反とするかは、本当に難しいところです。

20年ほど前、テレビでゴルフ中継を見ていた時のことです。

ミスショットをした選手が、持っていたクラブを地面に叩きつけたのです。

それを見た解説者、元プロゴルファー杉原輝雄氏が言った言葉を今でも忘れられません。

「こらっ、クラブに当たるな!自分の頭を叩いとけ!」

自分のミスである、クラブに八つ当たりをするなということでした。

もちろん、すべてが自己責任とはいわないが、公園で蚊に刺された場合、公園を管理する地方自治体に賠償責任を追及するでしょうか。

蚊に刺されたくらいでは、そこまでしないでしょう。

ではもし、登山中に不幸にも噴火に巻き込まれて死亡した場合、国立公園を管理する国に対して賠償責任を追及するでしょうか。

自然のなかでは、賠償責任という概念すら出てこないでしょう。

いかに都会から自然が排除されのだと考えさせられました。

効率を追い求めた結果、都会に「意味がないもの」は必要ないという現代人が増えた気がします。

訴訟大国になりつつある日本

社会科で、「マクドナルド・コーヒー事件」を取り上げたことがあります

公民の授業で、製造物責任法(PL法)を説明する時に例に出した時です。

アメリカのマクドナルドで、テイクアウトしたホットコーヒーを客自身が誤ってこぼし、大やけどを負ったという事件。

  • 過去に同様の苦情が多かったこと
  • マクドナルドで提供されるコーヒーの温度が、家庭用コーヒーメーカーより熱かったこと
  • コーヒーを渡す際に注意がなく、注意書きも見にくかったこと

上記の理由から、最終的にマクドナルドは、客に50万ドル(約5000万円)の和解金を支払いました。

まさに訴訟大国アメリカを象徴するような事件です。

この事件の後、マクドナルドでは、コーヒーカップに、「HOT(熱い)! HOT! HOT!」と、またドライブ・スルーには「コーヒー、紅茶、ホットチョコレートはとても熱い」という注意書きがされるようになりました。

日本でも、「容器は食べられません」など、目を疑いたくなるような注意書きを数多く見かけます。

誤って4630万円という考えられない金額が突然振り込まれても不思議だとは思わない。

当然、役所の間違いだから返還しない。

もう一歩先まで見えないのでしょうか。

阿武町の男性は逮捕、実名と顔写真を公表され、訴訟費用を上乗せされた額を返還しなければいけない可能性まで出てきました。

危険を察知する嗅覚

2021年5月20日、改正された災害対策基本法が施行されました。

従来の「避難勧告」、「避難指示」が一本化され、「避難指示」のみと簡潔になりました。

自治体からの発表が遅れたことで逃げ遅れた、発表に基づいて避難したのに、災害が起きなかったという人までいるそうです。

気象庁や自治体は、決められたマニュアルに沿って避難情報を発表しているだけです。

それなら、「この道は舗装されていないので、滑る可能性があります」と地道には、看板を立てなければいけないのでしょうか。

「夏場は紫外線が強くなり、浴びすぎると皮膚がんになる恐れがあります」と選挙カーのように大々的に放送しなければいけないのでしょうか。

そんなことをしていると、町中に看板が乱立して、逆に注意散漫になってしまいます。

その点、昔の人は上手でした。

昭和2年生まれの祖父は、ため池で遊ぶ危険性について、親からこう教わったといいます。

「ため池には、がたろう(カッパ)がいて、子どもを水のなかに引きずり込み、尻子玉(しりこだま)を抜いて殺していまうんだ!」

「がたろう」という妖怪を例に出すことで、心理的恐怖をあおり、ため池の危険性を子ども心に伝えたのです。

大津波警報が出たから非難するのではありません。

大きな地震が起きたので、津波が来るかもしれないと危険を予知して避難するのです。

「これは危険だ」と気づく嗅覚は敏感でありたいですね。

天気予報は「晴れ」の予報だったのに、雨が降った。

このような逆転現象が起きているのです。

不安は必要!

スーパーの事件もマクドナルドの事件も、ここまで来ると賠償金目当てだと思われかねません。

マクドナルド事件の時には、実際にそのような報道もあったといいます。

スーパの事件もマクドナルドの事件でも、店側は当然、謝罪をして治療費くらいは出しているはずです。

どちらの客もイソップ童話にある、背が届かなくて取れないぶどうを、「あのぶどうは酸っぱい」と言ったキツネと同じように見えます。

「あのぶどうは酸っぱい」ではなく、「あのぶどうは取れない」というのが正しい。

つまり、どちらの客も素直ではないということです。

自己責任とはいわないが、少しは自分に非があったと思わないのでしょうか。

滑って転倒したけど、自分も不注意だったなと思えば、店側の謝罪と治療費があれば、ここまで大事にはならないはずです。

それが許せないのです。

なぜ、かぼちゃの天ぷらが落ちているんだ、そんなはずはない。

落とした奴が悪い、片付けなかった店員に責任がある。

素直でないというか、地に足がついていないので、度が過ぎてしまう。

私は健康のために夜に散歩していて、「ナイトウォーキング」と呼んでいます。

ナイトウォーキング中に、暗い散歩道で何度かつまづいたことがあります。

暗い夜の散歩道は不安になります。

しかし、不安は人類にとって必要不可欠なものなのです。

タッド先生

石や木の根につまづくのではないか、怪しい人に襲われたりしないだろうか。

そのように人類は、自らの危険を予知しながら大自然の猛威のなかを生き抜いてきたのです。

大自然の中から生まれた人類が、いつの間にこんな勝手になってしまったのでしょう。

やはり現代人にとって自然に触れる重要性が、より増してきているように思います。

危険を察知する嗅覚は、意味のないものがたくさんある自然の中でこそ培われるのではないでしょうか。

体力作りだけではなく、嗅覚を研ぎ澄ます意味においてもナイトウォーキングの意義は大きいと思えました。

まとめ

日本もアメリカのような訴訟大国になってきたような気がします。

勝ち負け、白黒をつけて、グレーゾーンがなくなってきています。

「お前も悪いけど、俺も悪いよ、ごめん」

「素直さ」や「謙虚さ」がないのは、どこか息苦しいですね。

ましてや大人が素直でなければ、子どもが素直に育つ訳がありません。

心の問題でもあるのです。

素直な子どもに育って欲しいと願うならば、必然的に大人がどのように行動すればいいかが分かります。

4630万円は俺のもの、返さない。

だって俺の手違いじゃないよね。

そうなんですが、もう一歩先を考えることができたらいいですね。

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この記事を書いた人

名前:タッド先生

関西在住のアラフォー男。

同志社大学卒業。

元公立中学校教師。

既婚、1児の父。

うつ病で退職を余儀なくされ、より良い生き方を模索しています。

約9年間の公立中学校勤務の経験から、子育ての悩み、成績の上げ方の工夫など教育全般について発信しています。

ご意見やご要望などあれば、コメントかメールでお気軽にお知らせください。

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